「心の写真を撮っておく」

06.3.16の産經新聞、武田徹氏の記事で知った。



 「死に顔」撮影は許されるか



あちこちの葬儀で、あの間抜けなカッコウで、あのオトをたてながら撮ってる人が増えているらしい。

そう携帯電話のカメラだ。



それでなくとも耳障りなシャッター音。細工しないかぎり(たぶん)”消音”できない仕様だと思う。ワザとらしさも盗撮幇助のそしりを免れるメーカーの法的防御なんだろうと思ってた。それも、もう杞憂と言うことか。



以前、養老孟司の「死の一人称、二人称、三人称」の喩えを聞いたとき、自分の体験に合点がいったのを思いだす。



違和感がないのは、義理で参列している「三人称」の関係だからだろうか。

それとも、「二人称」の関係ですら、そんなモノなのだろうか。



唖然とする。何を考えているんだろう?



もし、私の死は一人称なのでどうにも出来ないが、親族の葬儀だったらお断わりする。縁のある人達が集って故人に別れを言う、礼を言う、その記憶が各個人の中に留まる。それ以外に葬儀の意味があるのだろうか。



毎日新聞の取材のなかで、斎藤浩司さんが「心の写真を撮っておく」と勧めている。



正しく。

というか、こんなこともわからない人達がふえてきたことだけは確かなようだ。



06.2.16毎日新聞記事

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